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聖人も悪人もいない物語――映画『聲の形』感想

前置き

さて毎年恒例の感動ポルノの季節ですね。愛は地球を救う。
というわけで「感動ポルノ」と批判された『声の形』をレビューすることにする。
あらすじはこちらを確認してね。
 
映画を鑑賞した後マンガ全巻読破。少し内容がごっちゃになってるかもしれないけどそこはご愛嬌ということで。
本論に入る前に「感動ポルノ」についておさらいしておこう。
 
私たちが障害者の姿に感動しているのは、心のどこかで彼らを見下しているからかもしれません……。2014年12月に亡くなったコメディアン兼ジャーナリストのStella Young(ステラ・ヤング)氏は、従来の「気の毒な障害者」という枠を破った率直な発言で人気を集めました。健常者の感動を呼ぶために障害者を取り上げる風潮を批判し、障害者問題に対する社会の理解を求めました。(TED2014より)

   障害者は感動ポルノとして健常者に消費される - ログミー

 

「感動ポルノ」の名付け親ステラ・ヤング氏のTEDスピーチより引用。詳細はリンク先を参照。

要するに障害者を健常者の都合のいいように消費する一連の風潮のこと。

 

 

聲の形』批判

上記の「感動ポルノ」という文脈で批判したのが町山智浩氏。

tomomachi.stores.jp

 

西宮が告白失敗で自殺したとしているのは度肝を抜く解釈だけど論旨と関係ないのでスルー。ポイントは「障害者をキリスト的聖人として描いている」という指摘。

 

もうひとつ有名どころの評論家から。

 

www.excite.co.jp

 

「二分法はない」となると、加害も被害もなくなる。それはダメでしょう。現実や人間は複雑なものだけれど、スパッと割り切る必要もある。「害」が生じたのだから、その害に対する責任は取らなければならない。
 最も加害者であるのに被害者意識を持っている者(植野)と、最も被害者なのに加害者意識を持っている者(西宮)の両ヒロインの対比。石田が中間。加害者意識すら持っていない川井、加害者意識は持っているかもしれないが贖罪は試みない島田の二人が、「邪悪」方面の典型例ですね。

 

 
こちらは「応報が不透明である」という批判。
 
以下はこれらに批判に覚える違和感の正体を探るために書く。
 

 西宮は聖人か

 

でも聖人って自分のことが嫌いで自殺しようとします?彼女の自殺って美しき自己犠牲として描かれていましたか?
 
彼女は自罰傾向が異常に強いタイプだ。自罰傾向ってのは、何事も「自分が悪い。自分のせいだ」と考えてしまう傾向のこと。わかりやすい例をあげるとリストカット。あれも自罰の一種であることが多いと思う。
 
西宮は自分の身の回りで問題が起こるとすぐに「ごめんなさい」と謝る。たとえば石田に補聴器を無理やり引き抜かれて耳を怪我したときも謝ったのは彼女のほうだ。そして石田を逆上させている。
 
また高校生になり再会した植野と観覧車で密談したときも同じ。植野が腹を割って話そうとしているにも関わらず「ごめんなさい」という言葉によって破談になってしまう。
 
西宮の自罰傾向の要因はきちんと描かれていない。原作では父方の祖母が用いる「因果応報」という言葉によって推測することができる。この「因果応報」については後述する。
 
ただ自罰傾向がきちんとわかりやすい形で描かれているかって点は判定が難しい。自罰傾向のある人は、西宮がノートを池に捨てられるシーンですぐにわかると思う。
ぼくは身内に自罰傾向が強いひとがいるのですぐにピンときた。
 
「判定が難しい」と言ったのは、描写が不十分だからではなく、自罰傾向を持たないひとにはほんとうに伝わらないから。常識的に考えて「悪くないのになんで謝るの?」って話だし。もっといえば「馬鹿にしてんの?」となる。
しかし、ぼくが本作および原作が優れていると思うのはこの「すれ違い」をしっかり作中で描いてるところ。
 
西宮と植野の徹底した「相互不理解」。植野は強烈なキャラクターだけど、西宮と真逆の他罰傾向の強い人物。石田に思いをよせるも彼に想いを伝えられないどころかいじめに加担してしまう。そしてこの罪を西宮に転嫁することで自我を保つ。
 
他罰傾向の強い人からみると西宮の行動は理解不能。自罰から出た「ごめんなさい」を対話の拒絶ととり、顔面をひっぱたくなどの事態に発展するのは当然なのだ。
悪いことは全部他人のせいにすればいいのだからとても生きやすいように見えるけど、これはこれで大変だと思う。
 
ちなみに西宮母も他罰傾向の強いひとだ。その意味で後半の植野vs.西宮母は頂上決戦という感じでたいへんわくわくした。個人的には御託並べずに手出す西宮母の北野映画のような緊張感は嫌いじゃない。
 
はい、というわけで西宮=聖人説を否定する。また、精神衛生のネガティブな問題を短絡的に障害と結びつけているわけでもない。よって西宮のキャラクター設計に問題があったとする立場はとらない。

 

誰が悪いのか問題

本作および原作は善悪による価値基準を極力採用しないように努力しているのは一見してわかると思う。
 
「なんでそんな面倒な努力をするのか」ってところ。実社会でイジメが起こったときのように、事実関係と責任の所在をはっきりして悪者を断罪してしまえばわかりやすいストーリーになっただろう。白黒はっきりしないストーリーは作り手の力量と受け手のリテラシーを要求する。
 
ポイントは、本作のゴールが「西宮と石田が友だちになること」である点。イジメは主題ではなく、友情のドラマだからだ。このドラマの「罪と罰」を考えていくと、友情を結べないことは罪なのか、という問いに行き着いてしまう。
 
友情を結ぶことは善か。たぶん善だろう。多くの人は直観として善とこたえるだろう。では友情を結べないことは悪か。
ぼくら各々の実体験として、どうしても友だちになれないケースは多々ある。そしてそれはどちらが悪いというわけでもなく、なんとなくノリがあわなかったり、価値観が違ったりしただけだ。友情を結べなかったことにより誰かが傷ついたとしても、少なくとも善悪の問題にはならないように思う。
 
イジメは悪だ。だが本作のストーリーにおいてイジメよりも重要なのは石田が西宮の手話「友達になってくれませんか」を「気持ち悪い」と拒絶したことだ。コミュニケーションの放棄。クライマックスでの石田の「ただ話がしたかったんだ」はここと対応してるわけだ。ちなみに石田の謝罪に対してそもそも西宮が「石田の罪」を認識していないことからもわかるように、ここでも「誰が悪いのか」という問題は二の次として描かれている。
 
もちろん「善悪」や「罪と罰」の問題を描いてることは確かだ。イジメや障害者差別の問題において「善悪」や「罪と罰」はしっかり語られるべきテーマであることも確かだ。しかし、本作はあえて「善悪」を不明瞭に描き、「罪と罰」を過剰な自罰傾向と他罰傾向して描いた。それは西宮と石田の、西宮と植野の、様々なコミュニケーションを阻害するものとして機能している。「善悪」や「罪と罰」の問題をコミュニケーションと対置させる構造は斬新に思えるし、本作を「誰が悪いのか」という視点から読むのは端的に不毛だと思う。
 

まとめ

アニメのキーイメージが「波紋」なのも良い選択だと思う。西宮が石田と再会する場面。「手すりの振動」によって石田の気配を感じる西宮。花火の「音」を二人がはじめて共有する瞬間を視覚化する「お茶の振動」。アニメーションならではの表現でうまくテーマを日常に落とし込んでいた。キャラクター設計、ストーリー構造、アニメーション表現、どれをとっても真摯な作りこみで好感の持てる傑作だった。『君の名は』や『この世界の片隅に』と同じ年じゃなければもっと話題になっていただろう。見逃している方はぜひ。

*1:わざわざ公式からひっぱってきたのは、「いじめ」や「聴覚障害」に関する情報が一切出てこないことを確認するためでもある