NO MORE 映画マウンティング

主に新作映画について書きます。

「演技力」の曖昧さについて

 
久々の更新にもかかわらず大きなテーマを掲げてしまい後悔している。
ともあれ、映画やドラマにおける演技は作品の出来を左右するとっても大事なパフォーマンスである。またそうであるからこそ、便利な批判対象にもなる。
言語化できるほど作品を吟味したわけでもなく、「なんとなく気に入らない」といった感覚で作品を批判したいときに、「〇〇の演技が下手」といえば、内容が薄くてもクリティカルに見える。とっても便利な評価項目なわけだ。
 
というのも演技の上手い下手は、共通認識があるようでいざ文字にしてみるとふわっとしか説明できない曖昧なものだからだ。
考えてみると不思議なもので、演技経験のある日本人は少数派だ。あったとしてもお遊戯会や文化祭の出し物でちょっとした役を演じたことがある程度でしょう。
ましてや専門的な教育や指導を受けたことのある人などほぼ皆無だ。にもかかわらず、映画やドラマが公開されると役者の演技力が当たり前のように品評され、しばしば痛烈な批判が加えられる。
 
というわけで、なんとなーく共有されている演技力ってつまるところどういうことなのか、考えてみようと思う。*1
 

演技の下手さ

上手い役者よりも下手な役者のほうがわかりやすい。例えばセリフの棒読み。いわゆるセリフ回しというやつで、抑揚がなく間の取り方も一定のセリフ回しは棒読みと呼ばれる。自動音声のように感情表現の乏しい演技と見なされてしまう。また逆に抑揚を過剰につけてしまうと今度は芝居が臭いと言われる。臭くもならず、かといって棒読みにならないセリフはどこで決まるのだろうか。それはもちろん、脚本、演出、ストーリーの方向性によって決まる。例えば小津映画の笠智衆は棒読み、表情の変化が乏しい演技だが下手なわけではない。監督小津安二郎の演出に忠実なパフォーマンスだからだ。
 
となると作品の傾向を理解し、監督の意向を組んだパフォーマンスを提供できる適応力が求められる。いわば役者は真っ白なキャンバスで監督や演出家が自由に色づけるできる無色透明な存在、これが一般に理解される役者の理想像になるのではないか。
 

役作り

こうした傾向の最たる例がいわゆるカメレオン俳優だ。例えばロバート・デ・ニーロ。彼は非常に観客受けのよい役作りを行うことで有名で、デ・ニーロアプローチとして知られている。
 
デ・ニーロアプローチとは、体重な大幅な増減、時には歯や髪を抜いたりするなど肉体改造も厭わない役者人生を賭した役作りを指す。
 
日本の役者でも綾野剛鈴木亮平のストイックな役作りは一般受けしやすく、スポット的な短い宣伝や記事で紹介しやすいため、よくテレビやネットを騒がせている。
役者の生存戦略としても様々な役を演じ分けることのできる器用さは、制作受けがよく重宝される。もちろん演技の多彩さは紛れもないテクニックであり、常人には達成できない努力と研鑽、そして才能のなせる業であることは否定しない。
そしてまさにこうした役者像が一般に想定される「演技力」のイメージだろう。
 
しかし、これが絶対的な評価軸にはなり得ない。この評価軸が機能するのは様々な役柄を演じることが前提となる。つまり、あくまで極端な例だが、生涯で一本の作品にしか出演していない、しかし素晴らしい演技を披露した役者を評価できないことになる。
より身近な例でいえば、たまたまつけたテレビで「この役者いいな」と思ったことってけっこうあるのではないだろうか。つまり、演技の幅広さは、実際に私たちが感じる「演技力」のあくまで一面でしかないといえると思う。
 

タイプキャスト

ではその逆を考えてみよう。
カメレオン俳優の対極に位置するのは、今クールのテレビドラマでも主演を務める木村拓哉だろう。木村が「どんな役を演じても木村拓哉になる」という批判はもはや常套句と化している。
 
今回のドラマでも正統派の主人公タイプの役を演じており“いつも通り”の演技を披露している。というわけで例によってこうした記事が出てくる
 
木村はアンチが多いため風当たりが強いが、実はこういう役者はたくさん存在する。
昔の映画スターではむしろこちらのタイプのほうがスタンダードだった。
例えばケイリー・グラントやハンフリーボガートなどいくらでも挙げることができる。
日本でいえば菅原文太高倉健もそうだ。
 
こうした昔の役者たちはジャンル映画の主演を務めることが多かった。つまりタイプキャストである。決まったジャンルの決まった役どころで人気を博したため、様々な役柄を演じ分ける必要がなかったのだ。
 
監督や脚本に役者が合わせるのではなく、役者に監督と脚本が合わせていた構図になるわけだ。しかし、これらの役者たちは次第に映画界から姿を消していく。ジャンル映画自体が廃れてしまったからだ。
 

「演技力」の源流

ジャンル映画の衰退、そしてタイプキャスト型の役者がいなくなるにつれてカメレオン俳優が台頭してきた。前述のロバート・デ・ニーロアル・パチーノダスティンホフマンなどのタイプだ。そして彼らを輩出したアクターズスタジオの名声が高まるようになる。アクターズスタジオでは「メソッド演技法」と呼ばれる自然な演技法が指導され、従来の文字通り型にはまった演技から、個々の作品や役柄の解釈に基づいた自然でリアル志向の演技が重視されるようになった。
 
でも自然でリアル志向の演技ってなんでしょう。あえて雑に要約すれば、役者が別人になることに到達点を置く演技のことだ。この最たる例を近年のアカデミー賞に見て取ることができる。
今年度のアカデミー賞でも最有力はチャーチルを演じたゲイリー・オールドマンだし、サッチャーを演じたメリル・ストリープホーキング博士エディ・レッドメインなど実在の人物を演じた役者は強い。これが究極のリアル志向だ。実在した人物をどれだけ再現できたか。これが「演技力」の重要な評価ポイントになる。*2
 

まとめ

思いつくままに書き連ねてきたが、演技力とは要するに「別人になりきる力」を指しているらしい。こうした観点からすると木村拓哉はワンパターンの未熟な役者になり、セリフに抑揚がなく(つまり棒読み気味)、無表情の演技を得意とする東出昌大は表現力のない役者ということになる。どちらも圧倒的な存在感で画面映えする役者にもかかわらず、彼らの名前を検索すると「下手」「大根」などがサジェストされる。
 
ポイントは彼らがちゃんと制作サイドには評価されているということで、受け手側があまりに別人なりきり型の演技観に傾倒しすぎていて彼らの演技を過少に評価してしまっているわけだ。もうちょっと別の観点から役者が評価されてもいいんじゃないかと思う。
 
例えば、乃木坂の西野七瀬主演『電影少女』なんて面白いと思うんですが。彼女のテクニックはそりゃ経験豊富な役者に劣るし、役になり切れてもないけど「自分を魅せる能力」は天性のものですよ。ドラマ自体、原作の再現を目標としているわけではなく、西野七瀬の魅せ方一点にかけて作られているわけで、別人になりきることではなく役者のカラーを残した演技を形にした作品だと評価している。アイドルの「かわいさ」は単なるビジュアルのかわいさでは当然ないわけで、オーラだとかキャラクター性だとかなんて呼んでもいいけど、役者としての資質に通ずるなにかがある*3。それはきっと「演技力」だけでは評価できない役者の魅力の一つだろうと思う。
なのでまだ放送が終わっていない『電影少女』も的外れな「演技力」批判に晒されずにしっかり評価されることを願っています。
 
というわけで本稿のまとめかわいいは正義

*1:本稿の演技は映画やテレビなどの映像作品に限定する

*2:千人規模の会員投票により受賞者が決まるアカデミー賞なので、わかりやすい基準=再現性により票が流れやすい面もある。

*3:「アイドル映画」は否定的に使われることが多いが、しっかりと作りこまれたアイドル映画は面白い。『セー服と機関銃』とかぜひ見てほしい。相米慎二はいわゆる「演技力」とは違うところで映画を作っていた一人。彼が好んで演技経験のないアイドルを好んで主役に起用していた。