NO MORE 映画マウンティング

主に新作映画について書きます。

原作読者もだまされる大胆な脚色 『去年の冬、きみと別れ』感想

 
映画のオチや展開が読めたかどうかで頭の良さを競う人たちっていますよね?
 
ぼくは頭が悪いのでその手の人たちは苦手です。だから『メメント』とか『バタフライ・エフェクト』とか『ファイトクラブ』とかの複雑なストーリーを売りにする映画もあまり好きではないです。むしろこてこてのストーリーの方が好きなくらいで。
 
本作はそういった頭の良い人たちへ挑戦状を叩きつけるような映画として宣伝されていたので、正直どうかなと思いながら観にいったんですが、
 
 
やっぱりおもしろいっすね。こういう映画。
 
 
あっさり騙されましたわ。逆に清々しいくらい騙されましたわ。
 
もともと中村文則の同名原作小説がとてもよく出来ているのですが、叙述トリックが小説独自の手法なんですね。だから映像化不可能と言われていたのですが、執念の脚色で見事に実写化。
 
原作の読者も騙されること間違いなし。読んでから観てもよし、観てから読んでもよし。メディアミックスはかくあるべし、というお手本のような映画になっています。
脚本命の映画なので小説と比較しながらその辺について書いていきます。
 
映画と小説両方ともネタバレするのでお気をつけて。
 
あらすじ
フリーライターの耶雲恭介(岩田剛典)は、盲目の美少女(土村芳)が焼け死んでしまった不可解な事件の謎を追う。婚約者の松田百合子(山本美月)との結婚を控えた最後の大仕事として意気ごむ耶雲だったが、容疑者の木原坂雄大斎藤工)の取材を重ねるうちに、木原坂とその姉朱里(浅見れいな)の過去に隠された真実に迫ってしまい、百合子、そして編集者の小林良樹(北村一輝)まで巻き込む事態へと発展することに。果たして焼死事件の真相とは。
 
監督 瀧本智行
原作 中村文則
脚本 大石哲也
製作 総指揮高橋雅美
製作 池田宏之
 
 
 

映像化不可能の理由

 
中村文則の同名小説『去年の冬、きみと別れ』。まずなぜこの小説が映像化不可能と言われているのかについて。
 
その答えは非常にシンプル。
「小説であること」自体がミステリーの仕掛け
になっているから。
 
小説の扉に献辞があり、その名前がイニシャルになっている。これ普通は作者が書くもので物語には関係ない。
でもこれがこの小説のあっと驚く仕掛け。 物語の最後で献辞を書いた人物が作者ではなく、登場人物であることが明かされる。そう、この小説を書いたのは作家ではない。その登場人物こそがこの本を完成させた張本人であり、そして事件を仕組んだ真犯人でもある。というメタ的な仕掛けになっている。
 
つまり小説というメディアを利用したミステリーサスペンス。ちなみに作者の中村文則によると献辞までミステリーに利用した例は前代未聞、とのこと。*1
 
また、この小説は「資料」と題された手紙のやりとり、映像資料の書き起こしを組み合わせた変わった語り口を採用している。早速タネを明かしてしまうと、手紙をやりとりしている人物と語り手が別人というのが叙述トリックになっている。
 確かにこれをそのまま映画で再現するのは不可能だ。
 
しかし、映画版ではこの叙述トリックを映画的なトリックに代えることによって映像化を成功させた。さて一体どんなトリックだろうか。
 
 
※ここから映画/小説ともにネタバレします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 不可能を可能にした脚本マジック 

 
一番大事なことなので最初に書いておこう。
 映画版と小説版では犯人が異なる。
 映画版でも献辞の件はあるけど、捧げる相手が少し変わっている。
なんだっけ?という方は公式サイトのキャスト紹介ページでイニシャルとその人物が暗示(ほぼ明示に近い)されているので下記参照。
 
さて核心に迫ろう。映画で描かれた木原坂姉弟による父親殺害の話は原作にない。
原作の彼らはアル中でDV野郎の父親から逃げだしただけだ。つまり、編集者の小林が木原坂姉弟と繋がっていたという一連のストーリーは映画オリジナル。では原作の小林は何者なのか。
 
もったいぶらずに言ってしまうと、小説版の犯人は編集者の小林なのだ。
映画はこの小説の犯人が小林であることを逆手にとって脚色されている。 原作を読んでいない観客は映画中盤に明かされる、
小林が実は裏で木原坂朱里とデキている
という事実に驚いただろう。しかしもっと驚いたのは原作読者だ。
 
原作読者からすれば、小林が裏切り者であるということ以上に
小林が犯人ではない?という示唆に驚くことになるわけだ。原作未読/既読の観客に向けた二段構えの脚本、とてもよくできている。
 
ちなみに小説版の献辞は木原坂雄大と本の執筆を依頼したライター*2に捧げられたもの。なお小説版の小林も吉岡亜希子の元恋人という設定。つまり、映画も小説も「元恋人を殺された復讐」という動機は同じである。
小林を映す背面ショット
これが映画で三回(だったと思う)出てくる小林専用のアングル。
 一回目は小林の初登場シーン。出版社らしき建物内を移動する人物をしばらく背後から追い続ける。原作読者は顔が見えなくてもすぐにこれが小林であることに気づくだろう。また、ややもったいぶったこの撮り方が真犯人であることを暗示しているようにも思う。
 
二回目。これが小林が朱里と密会するシーン。ここで原作読者も騙されることになる。
そして三回目。木原坂朱里が父親に性的虐待を受けている場面を目撃する回想シーン。ここで小林と木原坂姉弟の繋がりが決定的になる。脚本の山場を映画的表現で提示してみせるとてもよいアイデアだった。ただ脚本で騙すのではなく、それが映画的手法と密接にリンクしているのが本作の魅力。
 

映画の叙述トリック

 
映画版における最大のトリックは時制にある。
シークエンスのはじめにわざわざ章番号をキャプションで示す映画版。
オープニングが終わると意味ありげに第二章からはじまる。語られない第一章を予想してみろ、と言わんばかりに。
 
第二章の季節は夏。勘の良い観客なら、夏を象徴する記号がやたら強調されていることに気づいただろう。取材に奔走する耶雲の汗、それを指摘する百合子のセリフ、小林のシャツに滲む汗、セミの声などなど。タイトルにある「去年の冬」がおそらく第一章で語られることになるのだろう。ぼくらはそう予想する。
 
するとある不自然に気づく。耶雲が冬服を着ているシーンがちらほら出てくるのだ。
 これが手紙の叙述トリックに代わる映画の叙述トリック

 

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(C)2018映画「去年の冬、きみと別れ」製作委員会

 

 

はい、というわけで映画版の犯人はこの人でしたね。 

 これを隠すために第二章に第一章を混ぜている。

ストーリーの流れを整理しよう。第二章で取材に没頭する耶雲だが、実は語られない第一章の時点ですべての真相を突きとめている。第二章の耶雲は彼らと小林の関係を知ったうえで、企画を持ちこむ。真相を暴くためではなく計画を実行するために。

 
百合子と共謀して偽装カップルを演じ、雄大に彼女を「監禁」させるよう仕組む。そして百合子と朱里をすり替えて火をつけ、雄大を犯人に仕立て上げる。復讐のトリックはおおむね原作と同じ。原作にいた第三の共犯者はいないけど。
 
小林は耶雲の経歴が嘘であり名前も偽名であることに気づき、彼と吉岡亜希子の関係を知る。そして耶雲の隠れ家を突き止め、そこで彼の口から語れなかった第一章と復讐の全貌を聞かされる。耶雲が百合子の遺体を確認するとき小林に同行を求めたのも復讐の一部だったのだ。もちろん黒焦げの遺体は百合子ではなく、小林が愛した朱里だったのだから。 これはもちろん映画オリジナル。
 
何度でも言うけど練りこまれた脚本。タイトルを伏線にするのは出来すぎなくらい完璧な仕掛けでしょう。原作度の高い原作に負けない別バージョンにきちんとなっている。
 

まとめ

 

主演が岩田剛典っていうのもある種のミスリードですよね。岩田が外国文学好きにはどうしても見えない。それにタレントの格としても岩田と無名の土村ではミスマッチなので、耶雲と吉岡の関係に全く気づきませんでした。だって土村さんポスターにすら出てませんからね。名前は5番目に出てるのに。6番目に名前が出てる北村一輝はでかでかと顔出ししてるのに。まあこれは商業的な理由かもしれませんが。
 
とにかくケチのつけようのない内容ですねー。ラストの山本美月のセリフは蛇足感ありましたけど、まあ逆にあっても大して変わりませんし。
あと炎上シーンもCGで安っぽくせず迫真だった。脚本についてばかり語ってしまったけど撮影も良かったです。
 すいません。きちんとまとめます。
 同じストーリーながら小説と異なる映画的切り口で不可能を可能にした圧巻の映画化。中村文則さんが献辞まで小説に利用したように、映画も使えるものはなんでも使う、という具合にキャスティング段階から罠を張り、タイトルまで伏線にする徹底っぷり。

 

ここまでされると仮に途中で展開が読めたとしても、「あれも伏線だったのか」とか「あそこも罠だったのか」とか気づいてからも色々楽しめるんじゃないでしょうか。現にこの記事を書いているぼくがそうなので。小説も短時間で読めるのでおすすめです。映画よりも登場人物が倒錯してておもしろいですよ。ぜひぜひ。

 

 

*1:去年の冬、きみと別れ』(幻冬舎文庫、2016年)文庫版解説より

*2:小説の一応の語り手、映画版では耶雲の立ち位置にあたる