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ACT UPの教訓 『BPM ビート・パー・ミニット』感想

試写会当選したんで公開より一足先に観て参りました。カンヌのグランプリをはじめ世界の賞を総ナメにしたフランス映画『BPM ビート・パー・ミニット』。
 
 啓蒙的なメッセージを込めようと思えばいくらでもできそうな題材。
 
「オーラルセックスを含む性交渉の際は必ずコンドームをつけること」
「注射針は必ず交換すること」
 
確かに、本作を通して軽視することのできない歴史を学ぶことができるし、衛生観念を改めることもできるだろう。
 だけど、決してこの映画は観客をわかりやすい教訓へと導いてくれない。
 
 あらすじはこんな感じ。
1990年代初頭のパリ。AIDSが猛威をふるうなか、行政や製薬会社の不作為、世論の無知、差別、偏見に立ち向かった活動団体ACT UP Paris。HIV陽性のショーン(ナウエル・ペレーズビスカヤート)、ショーンと恋に落ちるナタン(アルノー・ヴァロワ)を中心に、ソフィー(アデル・エネル)やチボー(アントワン・ライナルツ)など立場や感が方は違えど、みんな同じ理想に向かってACT UPの活動に心血を注ぐ。
 
 
 

 

ACT UPとは

 
1987年にニューヨークで発足。ACT UPはアクロニムで「力を解き放つためのAIDS連合」という意味。本作で描かれるACT UP Parisは、ニューヨークからパリに派生した組織。以下でACT UPと表記する場合はACT UP Parisを指す。
 
当時AIDSの爆発的流行は、世界を揺るがす大問題となっていた。
ひとつにはAIDSへの無理解。それもマイノリティへの差別・偏見を大いに含んでいたせいで、行政や医療の不作為を招いた。
 
治療法が確立されていなかった当時、AIDS(HIV陽性)を宣告されることは死を意味した。HIVの主な感染経路は性交渉や医療器具の使い回し。ゲイ、薬物使用者、セックスワーカーの感染者が多かったため、はじめAIDSは“Gay-related”という差別的な通称を用いられたほどだ。偏見に晒されやすい属性を持った人々に感染が目立ったため、そうした人々に対する「天罰」だとする声もあったらしい。
 
このように不当な偏見差別不作為が、死の病(何度もいうが当時は)AIDSにより心も体も弱った罹患者に注がれたわけだ。だからこそACT UPはAIDS罹患者が被るあらゆる不利益に反対するとともに、彼らの拠り所となるコミュニティとして機能した
 
例えば、ショーンとナタンが恋に落ちるシーン。彼らはAIDS予防の啓蒙のために、高校の授業に乱入し、コンドームを配布する。するとある女生徒がコンドームを拒否してナタンに「私はホモじゃない」と侮蔑する。言葉を失い動揺するナタンに気づいたショーンは、その生徒に見せつけるように熱い口づけを交わして差別にやり返す。
 

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(C)Celine Nieszawer
 
 この一件をきっかけにショーンとナタンは恋仲になる。ACT UPは活動団体であると同時にマイノリティ差別に対する盾でもあり、出会いの場でもある。
 

徹底した自然主義

 
本作の監督ロバン・カンピヨはACT UPの元メンバーであり、同じく元メンバーであるフィリップ・マンジョとともに脚本を書き上げた。
ACT UPの活動は多岐に渡り、とりわけ「赤い血」を用いたスクリーン映えのする過激な抗議活動が印象的だが、カンピヨとマンジョが最も重要なポイントとして挙げるのがミーティングのシーンだ。*1
ACT UPでは週に1回行われるミーティングで活動方針が決まる。ミーティングというと事務的に聞こえるが、その内容はディスカッションに他ならない
 
このディスカッションのシーンがとても即興的でおもしろい。
おそらくまともにカメリハをしていないだろうこのシーンが、発言がはじまってから遅れて発言者にパンすることもしばしばで、カメラの前に後頭部が現れて視界をさえぎることすらある。
カンピヨ自身の発言によると、あえて演技が固まっていないファーストテイクを混ぜて即興性を演出しているらしい。
 
カメラは物語を誘導するガイドではなく、「観察者」のポジションに近い。だからこそACT UPの「多様性」が活きる
 
激しい意見の応酬になることもあれば、突如として大喜利大会がはじまり笑いに包まれることもある。熱弁をふるう過激派もいれば、地道な活動を説く穏健派もいる。ゲイもいればレズビアンもいるし、視覚障害者もいれば、親子で参加する者もいる。フランス映画の伝統ともいえる徹底した自然主義
この映画はACT UPを描きながら決して定義しない。その意味で開かれた映画だと言えるだろう。
 

外部はどこにあるのか

 
いきなり前章と矛盾するタイトルを掲げてしまったが、本作は意図的に外部を排除している。ここでいう外部とは世界に他ならない。ACT UPの活動が世間にどんな影響を与えたのか。彼らのアクションに対する外部のリアクションは?こうした疑問に決して答えを与えてくれない。決して外部と接続することのないACT UPの内部を描き続ける。
 
製薬会社の抗議は警察によって拘束される。注射針の交換を訴えるデモでは車から飛び出すや否や即座に排除される。AIDS啓蒙のために高校でコンドームを配布すれば、学校から締め出される。
 
この手の実話ベースの話では、ラストカットでその後の歴史を補足するのがお決まりの手法だが、それもない。この外部の不在は何を意味するのだろう。前述したように本作のカメラは徹底して観察者の立場に留まる。つまり、カメラは観客を映画内へと引き入れてくれない。観客は突き放されるようにして彼らの活動を観察することしかできない。ここに居心地の悪さを感じることができるか否かによって本作の評価は大きく変わるだろう。ACT UPのスローガン「行動=生」「沈黙=死」は前者にのみ響く。
 

メッセージの不在

 
BPM(ビート・パー・ミニット)は医学的には心拍の速度を表す単位のこと。音楽ではテンポを意味する言葉だ。
本作ではまるでリフレインするかのように、劇伴の重低音がBGMとして響く。まるで鼓動のように。時おりビートを刻むようにダンスシーンが脈絡なく挿入される。アップテンポなハウスミュージック、光が明滅する強烈なコントラスト、舞い上がる塵をスローモーションで詩的に視覚化したこのシーン。やがてカメラは塵へと極端にクローズアップしていき、粒子と化した塵はCD4リンパ球*2へとオーバーラップされる。
 
ロバン・カンピヨのインタビューによれば、このシーンは作為的に演出されたわけではなく、たまたま「発見」して生まれたシーンらしい。
 
クラブでの撮影では、映画のために埃や何かの粒子を使ってはいません。残念ながら、あれはそのままクラブの中の空気そのものなんです。私たちはただスポットライトを当てただけなのです。だからディスコに行くとはマスクをした方が良いですよ。私はとても驚きました。なぜなら、それは私たちが無理矢理作り出したものではなく、そこにあるものを発見しただけだった。にもかかわらず、それはまるで魔法のような映像になったからです。私自身、あの映像にとても魅了されました。
 
偶然の産物。本編では異質な幻想的なシーン。しかし、自然主義的なアプローチを徹底したからこそ偶然を「発見」できたのだともいえる。物語やメッセージなど、前提とされる文脈に依存したアプローチではなく、撮影する空間をその空間ごとに客観的に捉えること。それによって世界は様々な形で現れる。
 
この記事のはじめでこの映画に「わかりやすい教訓がない」と述べたが、決してネガティブな意味ではない。むしろ本作は「わかりやすい教訓」がないことが教訓なのかもしれない。この映画は「発見者」を待っている。1990年代初頭のパリ。AIDSへの、マイノリティへの無理解・差別・偏見。その20年後を生きるぼくらは本作を観て何を「発見」するのか。映画は何も教えてくれない。
 

まとめ

 
ここで描かれるACT UPの活動をすべて肯定できる人は少ないんじゃないでしょうか。ぼく個人としては割とソフィーの立場に近く、ショーンの立場はやはり過激すぎると感じました。大事なのはだからといってこの映画が観るに値しないかというと決してそうではない、ということでしょう。
賛成なら指を鳴らし、反対なら歯擦音をあげる、といった本作で描かれたディスカッションのように是々非々で「参加」できる映画なので、多くの方におすすめしたいですね。
 

*1:プログラム収録のインタビューより

*2:HIV感染によって破壊される白血球のひとつ。免疫機能の司令塔的な役割を担う。

*3:http://indietokyo.com/?p=7779