東映『仁義なき戦い』シリーズ
「ヤクザ映画の名作」じゃなくて「ヤクザが出てくる名作」なんで毛嫌いしてる人はもったいないよ、というレビュー。
対象作品は以下の四作。
『仁義なき戦い』(1973)
『仁義なき戦い 広島死闘編』(1973)
『仁義なき戦い 代理戦争』(1973)
『仁義なき戦い 頂上作戦』(1974)
この後に『仁義なき戦い 完結篇』や番外編シリーズ『新仁義なき戦い』があるけど、笠原和夫脚本の作品が圧倒的におもしろいし、ストーリーとしても四部作でまとまってるのでとりあえず『頂上作戦』までを一区切りとする。*1
*なにを持ってネタバレなのかさっぱりわからないので配慮はしません。
通説『仁義なき戦い』シリーズ
とりあえず「とってもエポックメイキングな作品」として紹介されることが多い。
どんなところが新しかったというと「実録もの」というリアリティ追求路線を打ち出した点だ。
実録とは
「時代劇は古い!もっとリアルで身近な現代を描くべきなんだ!」
というわけで実際に起きた暴力団の抗争をモデルにした「実録もの」を打ち出すことにした。
ざっくりいえば、
・ドキュメンタリー調のナレーション
・新聞報道の体をとったダイジェスト
・人物名と肩書きのキャプション紹介
といった小技を駆使し、同録、手持ちカメラによる撮影も織り交ぜた「ドキュメンタリー的手法」により、絵空事ではない抗争のリアリティを追求した。
はい、教科書的なおさらいは以上。
「リアルな抗争?おもしろいやんけ!」
となる方います?哀しいかな少数派だと思うんですよね(なる方はいますぐみましょう)。
「ヤクザ映画?昔はおれも悪かった自慢するおっさんが見る映画でしょ?」
「リアルな抗争?実話ナックルズで充分でしょ」
21世紀を生きるぼくら現代人にとって70年代の「実録」だって立派な「時代劇」でしょう。80年代後半に生まれたぼくからすれば少なくともリアルタイムの話じゃない。
そもそも「ヤクザ映画」なる「反社会的」な内容を扱った映画が商業映画の第一線で売り出されること自体すでに昔のお話。はたして21世紀を生きるぼくらが見て楽しめるものだろうか。
わざわざこんなレビューを書いているわけでもちろん「楽しめる」と言いたいわけだ。でも昔の売り文句はもう古いし、本シリーズを一面的にしか紹介していない。少なくともぼくにとっては「実録」よりも大きな魅力が本シリーズにはあった。
というわけでようやく本論に入る。
自説『仁義なき戦い』シリーズ
通説ではずいぶんおどろおどろしい印象を与えてしまったかもしれない。
でも安心してほしい。このシリーズはシンプルに笑いどころの多い楽しい作品だ。
おちゃめな文太さん
例えばシリーズ第一弾『仁義なき戦い』からひとつ紹介しよう。
賭場での喧嘩を見咎められて「落とし前」をつけることになった菅原文太。
いざ指を詰めようとしても自分も周りもやり方がわからない。昔見たことがあるという姐さんの記憶を頼りになんとか「落とし前」をつける。
「か~しびれるのぉー!!」と悶える菅原文太だが、肝心の指がない。
「指がなくなったらことだぞ!」となり、みんな大慌てで探し出す。
すると鶏小屋から発掘されて一安心。
シリーズ第二弾『広島死闘編』からもうひとつ菅原文太。
菅原文太率いる広能組は資金繰りに苦しむ。
子分に用意してくれた晩飯を食べる菅原文太だが、外でしきりに野犬が吠えている。
「おまえも腹空いとるんか。ほら食え」と肉を投げる菅原文太。
しかし、野犬はより一層激しく吠えたてる。
「おまえらこれ何の肉食わしとるんか!」
という愛犬家ドン引きのブラックオチ。
菅原文太ってこういうコミカルな演技が得意なんですよ。この後に『トラック野郎』シリーズで主演を飾る彼は、コメディの弱い東映では貴重な役者。本シリーズでもしっかりその喜劇役者エッセンスが出てる。怖さ渋さの奥に可愛げがあるんですよね。
いまの若い人はワンピースの赤犬のイメージが強いかもしれない。でもあの文太はまったく可愛げがない。ま、あくまでモデルなんでしょうがないけど、実際の菅原文太の可愛さは本シリーズで充分に味わえる。目がかわいいんだよね、この人。余裕のあるひとは『トラック野郎』シリーズもみてほしい。
安心と信頼のコメディリリーフたち
本シリーズのファニーなシーンは菅原文太だけじゃない。というより広能を演じる文太は昔気質のヤクザとしてむしろヒロイックに描かれている。
絶対に外せないのが山守を演じる金子信雄。日本映画でこれ以上のタヌキ親父はいない。
とにかく金に汚くて情けなくてずる賢い。約束を守らない二枚舌、困れば泣き落とし。
まさに外道!というキャラクターなんだけど、シリーズ通して登場すれば笑いに包まれる存在。逆に言えばシリアスなシーンでは絶対に出てこないコメディリリーフ的役回り(でありながら物語の中心は山守と広能のながーい親子喧嘩なわけだが)。
その田中邦衛演じる槇原は山守の腰巾着。山守に殴りこみの指揮を任されるも菅原文太や成田、山城が芋ひくと途端に弱気になり、ケツをまくる(『代理戦争』)。槇原は第一作からずっと口だけの詐欺師的なポジションで最後まで生き残る。
『代理戦争』以降に登場する打本(加藤武)は劣化版山守のような役。
地元の有力実業家のため勢力争いのキーマンになるが、とにかくビビリで極道よりも事業が大事。でも格好はつけたい。というどうしようもない男。
『頂上作戦』では敵対する組に「うちの若いもんがいまお前のところの親分を殺りにいったけぇ。気をつけや」と密告する。これ挑発じゃなくてガチの密告ですからね。
んで教えてやったんだからとでもいうように金をせびり、
「喧嘩相手に金貸すバカがどこにおるんね!!!」
と武田(小林旭)から至極真っ当なツッコミを入れられる。
山守がコント師だとすれば加藤は漫才師。言葉のかけあいで笑いを狙いにくるタイプ。
「珍奇」な戦い
普通のヤクザ映画であれば男気のあるキャラクター、あるいは行為としてヒロイックにみせる場面もどこか滑稽で情けない。
例えば、身の危険、刑務所行きも辞さず、単身で敵のキーマンを殺りにいく鉄砲玉。
「実録」を謳ってるからこそ「殺し」を格好良く見せてはならない。
そんな規範意識があるのか、あるいはメッセージなのかわからないけど、「滑稽さ」「みっともなさ」「下品さ」が本シリーズのキーであることは間違いないし、「アウトローの美学」よりも普遍性がある。格好良さには色々あるけど、格好悪さは一様だ。少なくとも一般論としては。
日米問わずヤクザ映画・ギャング映画は勧善懲悪を裏返した「アウトローの美学」を描いてきた。本シリーズにはその「美学」がない。アウトローの「醜態」を晒しながら描き続ける。その意味で本シリーズはヤクザ映画版の『許されざる者』だといえばいいすぎか。
笠原和夫の台詞劇
うん、いいすぎ。本シリーズを語る上で脚本家の笠原和夫の存在は欠かせない。緊張と緩和を自在に操る天才脚本家。圧倒的な台詞劇の迫力で緩和を一気に緊張へ引き戻す。どれだけ情けなくても、どれだけ汚い抗争でも、どれだけストーリーが錯綜していても、台詞のパンチ力一発でテンションを引き締める。たとえば第三作は、モデルになった抗争が複雑、かつ水面下の駆け引きが多く、シナリオ化が難航した。特に後半は急展開で正直初見はストーリーの展開についていけない。
しかし、
「のう、わしらばかりが火の粉を浴びることはないじゃない、山守に火傷させたれいや、のう」
この文太の台詞で「(なんかよくわからんけど)山守火傷させちゃれ!」と一気にあがる。*2
ちなみにいちばん好きな台詞は『頂上作戦』で武田が明石組に宣戦布告するこの一言。
「広島極道は芋かもしれんが旅の風下に立ったこたぁいっぺんもないんでぇ。神戸のもんいうたら猫一匹通さんけえ!オドレらよう覚えとけえや!!」
おわり
というわけで『仁義なき戦い』シリーズは、「緊張と緩和」の絶妙なバランスが傑出してる映画。「ヤクザ」や「バイオレンス」に抵抗のある人でも、きっとガンジーだって楽しめる超名作だ。ぜひみてくれよな。