NO MORE 映画マウンティング

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ドン・シーゲル&クリント・イーストウッド 『白い肌の異常な夜』感想

男臭いいぶし銀コンビ、ドン・シーゲルクリント・イーストウッドの傑作サスペンス・スリラー『白い肌の異常な夜』。
お洒落でガーリーなソフィア・コッポラが本作をリメイクするっていうんで予習がてらにレンタルしてきましたよ。久々にリアル店舗で。ちょっと面倒だけど、観たい方は某大手レンタル店へ。近所の小規模店でも在庫していたのでだいたいの店に置いてあると思う。
 
1971年に公開された本作は、監督のドン・シーゲルクリント・イーストウッドにとってキャリアの転機となった作品。
そもそもこの企画は『真昼の決闘』撮影時にイーストウッドが原作を気に入り、シーゲルに映画化を持ちかけたところからスタートしたらしい。
当時のイーストウッドマカロニウエスタンの看板役者でばりばりのアクションスター。一方のドン・シーゲルもB級のジャンル映画、主に西部劇やアクション系のイメージが強い監督。
 

 

 

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これが本作のポスター。タイトルよりもでかでかと浮かぶ「Clint Eastwood」の文字。イーストウッド以外の役者は人面疽みたいで誰だ誰だかわからない。
リボルバーを構えるイーストウッドはガンマン以外の何者でもない。否が応でもアクションを期待してしまいますよねー。
 
でも本作のイーストウッドはずっと足怪我してて動けない役。ほとんど肉体的なアクションはなく心理戦がメイン。なんせ舞台が女学校だから。
 
映画会社としては二人の持ち味を殺す企画だったわけで、どうにかこうにかアクションに寄せて売り出したかったんだろうな。シーゲルとイーストウッドはぶち切れたらしいけど。結果的には大コケしてしまったが、イーストウッドの作家性に大きな影響を与えた映画。彼が同年に監督デビューを果たす『恐怖のメロディー』とかもろに同じテイストだし、多分にマゾっ気が発揮された問題作。
 
あらすじはこんな感じ。
南北戦争の最中の女学校が舞台。北軍の軍曹であったジョン・マクバニー(クリント・イーストウッド)は瀕死の重傷を負って森の中をさまよう。そこへ偶然やってきた少女エミー(パメリン・ファーディン)に救われて、南部の女学院に運ばれて一命をとりとめる。北軍兵士を匿うのはもちろん重罪。葛藤する学長マーサ(ジェラルディン・ペイジ)。看病を通じて次第にマクバニーに惹かれていく純朴な教師エドウィナ(エリザベス・ハートマン)。そのエドウィナに嫉妬の炎を燃やす女生徒キャロル(ジョー・アン・ハリス)。それぞれの思惑が交錯し物語は思いよらない展開へと進んでいく。イーストウッド以外の役者は人面疽みたいで誰だ誰だかわからない。
 

 

 タイトルのエロさ

 
とりあえず気になるのは安っぽいピンク映画みたいなタイトルですよね。
確かに性描写多めだし、イーストウッドが基本女性といちゃいちゃする映画なんでまったく理解できない邦題じゃないけど、色気の裏に隠されたものがテーマなんで安易なミスリード感はある。
これ原題がリメイク版のタイトルにもあるbeguiled。「欺かれた者」を意味する動詞で、これをそのまま邦題にするのも味気ないし、また内容もよくわからないので、同情の余地はある。リメイク版も「 欲望の目覚め」ってサブいれてるしね。これはこれでピンク映画っぽいけど。
 
 
ただタイトルのミスリード感にまったく意味がないわけではない。というのも本作の見どころは、「敵対する北軍兵士と南部女性たちの禁断の情事」を餌にしながら少しずつサスペンス・スリラーに転調していく巧みな演出にあるからだ。
 

ボイスオーバー・フラッシュバック

いまではあまり見られなくなった古典的ともいえる手法。1970年代でもやや廃れていた感があったんじゃないかな。なんせ当時の流行りはスローモーションとかVFXだったから。
 
でもそこはハリウッドを代表する職人監督ドン・シーゲル。流行り廃りなんて関係なく、ボイスオーバーとフラッシュバックを使いまくる。
一応説明しておくと、ボイスオーバーは「心の声」とか「天の声」をいれる演出のこと。フラッシュバックは、回想とか空想とかの映像を断片的かつ瞬間的に挿入する演出。心理現象としてもあるあれを映像技法として再現した感じ。
これらの手法がサスペンスの強度を高めるために効果的に使われてる。イーストウッドもサスペンスうまいけど、さすがその師匠って感じ。
 

サスペンスと爆弾

サスペンスの肝は「志村うしろーうしろー」にある。*1
 
登場人物に迫る危険を一足先に観客に察知させる。それだけ観客は勝手に登場人物の身を案じてやきもきしてくれる。ヒッチコックトリュフォーに語った爆弾のたとえ話が有名。映画で爆弾が急に爆発したら観客はショックを受けるがあくまでその一瞬驚くだけにすぎない。しかし、もしその爆弾が時限式で、観客がそのタイムリミットを知っていたらどうだろうか。観客はその爆弾が爆発するまでの数分間、あるいは数十分間、「はやくそこから逃げろ」と心配してドキドキしてくれる。
サスペンスを支える図式は、重要な情報を観客>登場人物の割合で配分することにあるというわけだ。
マクバニーがマーサに好かれようと「敵を助けようとして撃たれた」と大嘘をつく時。観客だけはフラッシュバックで逃げる南軍兵の背面に銃弾をぶち込むマクバニーの本性を知る。登場人物たちの思惑を上手い具合に観客にばらしてサスペンスに拍車をかけ小気味よく物語は進む。
 

マーサがやばい

具体的にこうした手法がどのように物語に貢献するかというと、学長であるマーサの人格にあるわけですね*2序盤は北軍兵士である彼を匿うことを躊躇して南軍への密告を考えるが、直前で思いとどまる。彼女を思いとどまらせるのは、兄とのただならぬ関係を示唆するフラッシュバックだ。堅物のオールドミスに見える彼女だが、ずいぶん倒錯した欲望の炎がくすぶってるらしい。
 
そうなると彼女が男性と会う直前に、鏡で見だしなみを整えたり、さりげなく髪を直したり、襟を正す様子が、南部の淑女らしい嗜みというよりも男性の目線を意識したなまめかしい仕草に見えてくる。実際に物語が進んでいくと、淑女とはほど遠いセクシュアリティの持ち主であることがわかる。これらはすべてボイスオーバーとフラッシュバックによって観客にのみ示唆される。彼女がマクバニーを待つ夜のシーンは、フラッシュバックとボイスオーバーを巧みに組み合わせ、宗教の構図にオーバーラップさせた3P(夢オチだけど)でフィニッシュする圧巻のカッティング。*3
またその後が怒涛の展開なんだけど、それは見てのお楽しみということで。マーサの過去に何があったんでしょうね。
 
リメイク作の予習のぜひご覧あれ。
 
 
 
 

*1:この例えはどのくらいの世代に通用するんだろうか

*2:シーゲルは当初のこの役をジャンヌ・モローにオファーしたかったらしいけど映画会社の反対にあい結局叶わず。

*3:その他、怪しく揺らめく炎の影とか、マーサの顔が浮かび上がるような照明の落とし方とか、様々な職人芸を楽しめる