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ソフィア・コッポラは何がしたかったのか 『ビガイルド/欲望のめざめ』感想

ソフィア・コッポラの新作。今までの彼女の監督作はすべて自身が書いたオリジナル脚本になるので、原作ありの企画は本作が初。それもすでに一度ハリウッドで実写化されている小説を題材にしたリメイク作品になるのでちょっとびっくりした。オリジナルはドン・シーゲル監督、クリント・イーストウッド主演の『白い肌の異常な夜』。さて『ダーティハリー』でよく知られるハリウッドで一番男臭いコンビの映画をなぜ今さらガーリーでポップな作風で知られるソフィア・コッポラがリメイクするのだろうか。
 

beguiled.jp

 

ここでは『白い肌の異常な夜』との違いなども含めて、リメイク版の感想を書いていく。以下ではタイピングがだるいので『白い肌の異常な夜』をシーゲル版、『ビガイルド/欲望のめざめ』をコッポラ版と呼ぶ。ネタバレがんがんするので未見の方は要注意で。

 

 コッポラ版とシーゲル版の最大の違い

シーゲル版はセンセーショナルな学園長マーサのキャラクター設定と鋭角的な演出によるサスペンススリラー。
一方のコッポラ版は、扇情的な演出と物語設定を抑えた語り口のコスチューム・プレイになっている。前者を足し算の演出とすれば後者は引き算の演出といった感じだろうか。
 
シーゲルの演出については下記を参照してもらうとして
 
コッポラ版で個人的にいちばん驚いたのが音楽。
シーゲル版では名匠ラロ・シフリンによる劇伴が要所でサスペンスを盛りあげていたが、コッポラ版ではほとんど劇伴が使われていない。クライマックスでちょこっと音が響くような控えめな劇伴があるのみ。これはソフィア・コッポラ作品としては異例といってもよい。
 
ヴァージン・スーサイズ』では物語の舞台となった70年代のヒットナンバー、『ロスト・イン・トランスレーション』のエンディングで流れるジザメリの「Just like honey」などなど、音楽の印象が非常に強いソフィア・コッポラ作品。
 
とりわけコスチュームプレイという意味で本作と近い『マリー・アントワネット』では、80年代UKロックが鳴り響く。バロックロココ?古典派?うるせー、ロックが最高なんだよ!」という大胆な選曲。要するに音楽は彼女の作家性の重要なポイントなんですよ。でも本作では劇中歌はあるものの、全体的に禁欲的な音楽の使い方が逆に印象に残った
 
劇伴がなくなったことで際立つのが自然音だ。森に響く小鳥のさえずり、虫の鳴き声、轟く砲声、少女特有の笑い声など、ダイジェティック・サウンド*1に耳を澄ますことができる。
 
音楽、映像表現を多用して虚構化の道を突き進んでいたシーゲル版とは一線を画すアプローチだが、これは「物語世界内=19世紀のアメリカ南部」を意識させるための意図的な選択だろうと思う。つまりコスチューム・プレイに徹するための引き算。
 

19世紀のアメリカ南部

では本作の時代背景とはどんなものだろう。オープニングからしっかりとキャプションで時代と場所が明示されるので安心してほしい。1864年南北戦争真っ只中のバージニア州でのお話。
 
若草物語』の姉妹のようなファッションに身を包んだ美女たち。コッポラさんらしくファッションや美術へのこだわりがしっかりと反映されている。まるで当時にタイムスリップしたかのような空気感がスクリーンの端々にみなぎる。自然光中心のライティング(当時は電灯がないので)も印象的で、いわゆるハリウッド娯楽作とは別格の画面設計。
 
もちろん視覚的要素だけではなく、キャラクターにもしっかりと時代背景が盛り込まれている。
とりわけ学園長のマーサ(ニコール・キッドマン)は模範的な19世紀アメリカ南部の女性であることが強調されていた。劇中でも「サザン・ホスピタリティー(southern hospitality)」という単語が出てきたかと思うが*2、アメリカ南部には「サザン・ホスピタリティー」と呼ばれる「おもてなしの心」がある。たとえ敵対する軍人であっても「保守的で慎み深い敬虔なキリスト教徒、かつ洗練された女性」である南部美人(southern belle)の典型であるマーサは決して南部の精神に反することはしない。
 
もちろんシーゲル版で暗示されていた兄との近親相姦なんてもってのほか*3。シーゲル版では悪魔化されていたマーサが、一転して南部女性の理想像に。
 

「女性視点」のリメイク

本作のリメイクについてコッポラ自身は「女性視点」を意図したことを強調してる。
マーサのキャラクター変更もその一部だろう。他にも、アリシアエル・ファニング)のクスクス笑いが止まらない感じとか、マーサが年少の子たちの耳をそっと塞ぐ動作とか、細かいところまで行き届いた女性の表象が随所に見られる。最大のポイントは「女性視点」から見た男性マクバニーを描いているところ。
 
クライマックスでマーサは非人道的な決断を迫られる。やむを得ない処置だったとはいえ、足を切られて逆上するマクバニー。部屋で傷みに悶絶しながら獣のように罵詈雑言を吐く。そのけたたましい声は階下まで轟き、身を寄せ合って恐怖に耐えるマーサたち。
 

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男性性の恐怖をしっかりと描くことで、非人道的な決断に情状酌量の余地が生じる語り口になった。またコッポラ版ではその決断がマーサの独断ではなく、(エドウィナ除く)学園生徒たちの総意になっているのも大きな変更点だ。*4
 
「女性視点」から見た男性はもちろんポジティブな面もある。
 
 マクバニーの治療を終えて全身を隈なく拭いてあげるマーサ。筋骨隆々の肉体が水に濡れることでより一層色気を放つ様子を近距離で生々しく捉える。思わず心拍数が上がり、悶えるマーサ。ポイントはこの時マクバニーが眠っていること。シーゲル版ではマクバニーの策略に騙された感のあるマーサだけど、策略以前に圧倒的な肉体的魅力がある、というわけだ。
 
濡れマクバニーにやられるのはマーサだけじゃなくエドウィナ(キルスティン・ダンスト)も同じ。
庭仕事中のマクバニーが、布切れに含ませた水で首と頭を冷やし一息つく。濡れた髪をかきあげるマクバニー。二階からじっと見つめるエドウィナ。
 
物語上それほど重要なカット*5じゃないんだけど、肉体労働から垣間見える男性性をしっかりと描く。現代女性だって佐川男子に見惚れる女性が後を絶たないわけで、こういうのは普遍的なんでしょうね。ここのコリン・ファレルは男のぼくから見てもとってもセクシー。
 
ここに挙げた描写や変更点だけでもだいぶ物語の印象がシーゲル版と違ってくるはず。
以下では、シーゲル版とは確かに違う作品になってるんだけど、コッポラの作品になってるかはどうだろうか…という話をする。
  

ソフィア・コッポラは何がしたかったのか

時代考証の反映、女性視点の導入、シーゲル版に「いやいや、あれはやりすぎでしょ」と言わんばかりに常識的な視点に均していく意図が感じられた。
シーゲルがマクバニー側の弁護人だとすれば、コッポラはマーサ側の弁護人として本作を撮ったかのようである。それはある程度成功しているといえそうだけど、あのソフィア・コッポラが自分の作家性を封印してまで、女性弁護映画を撮るとはどうしても思えなく釈然としない。
 
結果的にはセンセーショナルの結末の劇的効果は薄れ、「なんか雰囲気はあったよねー」くらいの印象に留まる中途半端な映画になってしまっている。
結局ソフィア・コッポラは本作で何を目指していたのか。流れるエンドロールを観ながらもやもやしたので、個人的な推測に基づくぼくの考えた最強のコッポラ版について書く。
 
あくまで映画の感想ではなく推測。「考察」と書けばかっこいんだろうけど、根拠の薄い妄想にそんな大層な言葉をつかえるほど厚顔無恥ではないので。あと物語の結末に触れるのでご注意を。
 
マーサ、そしてアリシアはシーゲル版を上回るパフォーマンスだったと思うけど、エドウィナのキャラクターがいまいち出ていなかったように思った。コッポラからの信頼が厚いキルダンだからもうちょっとスポットライトがあたっても良さそうだ。
 
コッポラ版のエドウィナにはシーゲル版と大きく違う点がひとつある。
それは、彼女がマクバニーに「自分の望みはここから出ることだ」と明言すること。
シーゲル版での彼女はマーサから共同経営者にしたいといわれて無邪気に喜ぶ学園大好きっこだったはず。結局彼女が学園に留まる結末はシーゲル版と同じだが、彼女のこの願いは何を意味するのだろうか。
 
当時の女学校は「finishing school」と呼ばれる花嫁学校。結婚こそ女性が進む唯一の道であり、女性が職業を持つことははしたないこととされた時代だ。そんな中、女学校の教師やガヴァネス(家庭教師)は、未婚女性にとって自立できる数少ない職業であった。それにしても、花嫁修業の教える側にまわるだけで、どちらにせよ女性は「結婚」かその周縁でしか生きることを許されなかったともいえる。当時の女性は、男性に尽くすことだけが社会的に認められる唯一の手段だったのだ。
 
エドウィナは、足を失い、自信を喪失したマクバニーに肉体を捧げることで、彼を「男」として立ち直らせる。なぜなら「社会=学園の外」に出るには男と結ばれなければならないのだから。それがたとえ酒浸りのヤリチンDV野郎だったとしても、エドウィナを救えるのはマクバニーしかいないのだ。もちろんそれを「恋」と呼ぶことも可能だけど、果たしてマクバニーはそうした事情も計算にいれてエドウィナを誘惑してたのだろうか。より一層彼を嫌いになれそうですね。
 
本作は固く閉ざされた正門越しにマーサたちを捉えるロングショットで終わる。
平穏へと戻った学園の風景というよりも、まるで彼女たちが学園に幽閉されているかのように見える不穏さを感じた。戦争という社会から切り離された楽園。これはあくまで男性視点のものだ(だからこそマクバニーは学園に留まりたがった)。しかし、それは同時に女学校が社会から隔絶した場であったことを意味している。
 
  さて、ここにソフィア・コッポラが過去に描いてきたテーマを見ることができる。それは「疎外」と「孤立」だ。ソフィア・コッポラが現代的な彼女のポップセンスを封印してまで本作で時代考証にこだわったわけも、上記のぼくの推測のような問題意識があったからではないだろうか。
 
もちろんこれは邪推に過ぎない。それは本作の解釈を超える次元にあるので。個人的に書いてすっきりしたかっただけです。こういうのは一緒に見に行った友人と、あーだこーだ言って楽しむものだけど友だちがいないのでご容赦いただきたい。
 

まとめ

本人のインタビューによると本作の製作は途中で予算が減ってしまい、わずか26日で撮影したらしい。そこら辺の製作背景も踏まえると仕方がないのかな、という気もする。
でも悪い映画じゃないですよ。オープニングの森を映すクレーンカメラが少女に降りてくるショットとか、見張り番の少女がハミングしながら望遠鏡をのぞき込む夕焼けのシーンとか、映像センスはさすが。物語至上主義の人じゃなければおすすめの映画です。ぜひご覧あれ。
 

*1:物語世界内の音。登場人物が歌う曲や劇中で演奏される音楽などはダイジェティック・サウンドに含まれる。『踊る大捜査線』のテーマ曲とかは物語世界外の音で非ダイジェティックサウンドである。

*2:リスニング能力に自信がないので「サザン」と言っていたかは怪しいけど「ホスピタリティー」とマーサが口にしたのは間違いない。

*3:コッポラ版では兄の存在すら消されている

*4:提案者はマーサではなく、マリー(アディソン・リーケ)である。

*5:エドウィナが二階からのぞき見、庭を横切るアリシアがマクバニーに手を振り、それに応じる彼を見ていなくなる、という三角関係のシーンではある