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『パラサイト 半地下の家族』評について思うこと 

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 ポン・ジュノは好きな映画監督だ。『パラサイト』は上映を心待ちにしていた映画で、「絶対公開初日に観に行くぞ」と意気込んでいたけど、生来の出不精から劇場上映はスルーしてしまった。その間に本作はアカデミー賞作品賞に輝き、パルムドールと二冠を達成する快挙を成し遂げて、ポン・ジュノは名実ともに世界的な映画監督にのし上がった。ようやくU-NEXTで観れたけど、凡庸な映画ファンの私がいまから新しい切り口で感想を書けるわけもなく、かといって二番煎じ、三番煎じのような感想をみなさんに読ませるのも申し訳ないので、遅まきながら『パラサイト』を見たポンジュノファンが、ネットにあふれる『パラサイト』評を読んで思ったことを、書いていくことにする。

 

伏線・メタファー考察が多すぎる


 ポン・ジュノクリント・イーストウッドと並んでストーリーテリングが抜群に上手い監督だと思う。本作は、みなさんご存じのように中盤にそれまでの流れを一変させる衝撃の事実が明かされる。それまで潜入スパイものパロディのようなコミカルで牧歌的だった雰囲気は、ここから一挙にシリアスでバイオレンス色の強いものになっていく。

 この転調のアイデアがおもしろいのは言うまでもないが、脚本上のテクニックとしても上手いなと思うのは、前半部分の何気ない会話・描写で、この衝撃の事実を暗示するようなささやかな伏線を忍ばせているところだ。観客はあとから「そういえばあの時の会話…」、「あの設定はこのためか」と気づいてニヤリとする作りになっている。詳しく書くのは避けるけど、ある人物の食欲に関する会話やボーイスカウトの設定あたりは初見でも鑑賞中に気づいて「なるほど~」となるポイントだと思う。

 感想戦でこうした伏線について語りあうのはとても楽しい。しかし、こうした楽しみもネット上ではすぐにサイバーカスケードの効果によって先鋭化してしまう。

 その結果、伏線でも何でもないただの豆知識をしたり顔で披露したり、どうでもよい細部をメタファーと称してリンチ映画ばりの精神分析解釈を展開する映画評がでてくる。こうなると映画を楽しむという本分を忘れて、ただ自分の観察眼がどれだけ優れているかを示すための深読み合戦になっているように思えてうんざりする。

 個人が趣味でやっている分にはまだよいけど、プロのライターが金もらってこういう記事書いていると、さすがに映画をなめられているような気持ちにすらなる。

 もちろん伏線を解説したり、メタファーに対する自分なりの解釈を紹介すること自体が悪いわけではない。第一線の映画監督たちは細部にこだわる傾向にあるし、そうしたこだわりが映画の完成度を高めている部分もある。だからこそ、プロのライターが映画の細部を評価する際は、そのディティールやこだわりが映画に対してどう効果的だったかという視点を踏まえて論評してほしいなと思う。

 わたしが特にがっかりしてしまったのは水石に関する考察だ。ギウ(チェ・ウシク)が友人ミニョク(パク・ソジュン)から家庭教師の仕事とともに開運のアイテムとして「水石」なるものを譲り受ける。水石はギウのお守りとしてたびたび映画に登場することになるが、ストーリーが進むにつれてお守りというよりも、呪いないしコンプレックスとしての意味を帯びていくようになる。最終的に水石はギウの手によって川に戻されることになる。

 この水石に様々なメタファーがあるとする記事を見かけてびっくりする。いや、本作を観た者がまず思うのは、「この石に重要な意味が隠されていて云々」的なスノビズムの虚しさとバカバカしさじゃないだろうか。それってミニョクがギウに水石を渡したときのふるまいそのものじゃないか。

 

格差社会」を強調しすぎ

 
 『ジョーカー』や『万引き家族』を引き合いにだして本作を優れた格差社会批判の映画だとする記事も多かったけど、上記の作品と比べるとかなりエンタメ色が強く、その分、格差社会に対するリアリティを犠牲にしているように思えた。誤解しないでもらいたいのは、だから『パラサイト』はダメだと言いたいわけではなく、『パラサイト』の魅力は格差社会批判にはないと思っているだけだ。

 まず素朴な感想としてパラサイト一家の生活がそれほどみじめなものとして描かれていない。よそのWi-Fiにフリーライドする様子やピザ屋の内職に励む様子も生活苦というよりはコミカルな一幕として描かれている印象を受ける。

 またIT長者の生活と半地下生活の対比も、貧困を強調するというより金持ちの優雅な生活を強調する方向に働いている印象を受ける。そのためパラサイト一家が口にするように「こんな家に住んでみたい」、「こんな生活をしてみたい」という憧れのほうに感情が向くような作りになっているし、劇中でギウが最後に下す結論はそうなる。実際にギウがその目標を達成できるかは観客の想像に委ねられるわけだが、はたして格差社会を批判する映画としてこのオチは妥当なのだろうか。

 というのも『パラサイト』は、ストーリーのオリジナリティを活かすためにリアリティを犠牲にしている。例えば、パラサイト一家が順繰りにパク家族に就職していく前半は、嘘と偽装工作によってとんとん拍子に計画が進む。いわゆるご都合主義的な展開になっているのだが、反復を繰り返すコント的なテンポ感良さが都合の良さを笑いにかえているのだ。ここらへんはポン・ジュノのユーモアセンスが存分に発揮されていて、演出の妙ともいえるけど、リアリティはなく、観客はパク一家の背景を知ることなくストーリーが進んでしまう。

 はたしてパク一家はどれくらいの金持ちなのか。その財産はパク社長が一代で築いたものなのか(IT会社の社長だからおそらく一代で成功して金持ちの嫁さん見つけたステレオタイプっぽいけど)。

 こうした背景が語られないため、われわれ観客はギウがパク社長のように成功してあの家を手に入れる可能性を否定できない。エンタメ映画ならいいけど、社会性で勝負する映画なら手落ちだろうと思う。

 大雨の翌朝、パク夫人が鼻歌を歌いながら服を選ぶショットと避難所で古着を漁るショットをつなぐ風刺的なマッチカット、ギウがダヘに「ぼくはここに似合っているか」とたずねるシーンのやるせなさ、便器に座り諦めたかのようにタバコをふかすギジョン(パク・ソダム)など印象的な場面も確かにあるけど、戯画化された全体の印象とリアリティの不足によって高い批評性を感じなかった。

 やはり『パラサイト』はエンタメ映画だと思う。ポン・ジュノ自身も格差社会を反映した設定ではあるものの、あくまでモチーフだと明言しているし。ただ映画の感想でひたらすエンタメ性を褒めるのは難しいし、野暮な気もするので、社会性を強調したほうが記事を書きやすいからみんな「格差社会」を連呼してるだけじゃないかな。賞レースのコメントとかもそうなんじゃないかと思う。

まとめ

 
 結果的に『パラサイト』評だけの問題というより映画ブログ界隈にありがちな全体的な傾向のような気がする。それを言い出すと「批評」だと大げさだし、かといって「感想」だと弱いから「考察」と称する傾向もちょっと鼻につく。「考察」って言うからにはちゃんと考えて調べて文章書かなければならないと思う。私は面倒だしそんな技術も頭もないので素直に「感想」を使う。以上、感想でした。